鈴木なおし 履歴書

1968年12月31日、千葉県松戸市で、都内のメーカー研究員の父と、薬剤師の母の長男として産まれました。軍人の3男として満州(現・中国)で生まれた父は1941年に誕生、宮城県育ち。警察官の長女として生まれた母は長野県出身。時はまさに高度経済成長期、夢と希望にあふれ地方から上京した両親です。幸いにも両親は公団の公募に当たり、私が1歳になる前に、一戸建てに引っ越しました。

ここで少し私の父の話をしたいと思います。軍人だった祖父は、敗戦後の混乱の中、満州で命を落とし、父は祖母とその母親、そして乳飲み子だった弟や私の父を含む4人兄弟で、満州からの日本本土への地獄の逃避行を経験しました。幼子心に「置いていかれるかもしれない」との思いがあり、必死で一行の後をついて、日本海にたどり着いた時の景色は今でも忘れられないと言います。そんな父から、戦争というものが残された家族にとってもいかに恐ろしいものかということを繰り返し聞かされました。本土生還後、宮城県の実家に戻った父の家庭は、祖母が女手一本で家計を賄うこととなり、父は親せきの鈴木家に養子に出ることになりました。兄弟4人を賄いきれない家計の中、父は敢えて手を挙げたと言います。

どう考えても失敗している頼高市政に誰も挑戦しない中、今回私は手をあげました。父のDNAかもしれませんね。

父からいかに満州からの引き上げが大変なものだったか、幼い時から繰り返し聞かされました。「戦争を知らない子供たち」の私ですが、父の話から私は、戦争の悲惨が胸にしみていました。幼い時から、アニメなどでも宇宙戦争みたいな話はあまり好きになれませんでした。当時で言えば、圧倒的に「銀河鉄道999」派でしたね。

戦争の悲惨さを語る一方で父は、国の為に命をなくした実父を敬愛し、国を守る仕事のかけがえなさ、また国破れた後の悲惨な経験から、現実的な国防の必要性も繰り返し語っていました。私の国家や国防に関する考えは、こうした父の影響を強く受けました。戦争の悲惨さを幼児期に骨の髄まで味わった父。しかし、どこかの政党のように「戦争反対」と唱えていれば平和が保たれる、国際社会はそんな甘いものでないことも、国敗れ国防なき「国家」で地獄を見た父の話から自然と体感しました。

千葉県八千代市で、両親と弟、父の養父母の6人家族で育ちました。父には実父の記憶が殆どありません。父は、「父親」になったことがとてもうれしかったそうで、私は父から至上の愛情を受け、育ちました。

一方、母は薬科大学を卒業した才媛で、私が小学校に入学する頃には、すでに同県内の病院で薬局長を務めておりました。ちなみに私の妻も、福祉施設で施設長を務めています。特に母の時代は女性が働くこと、しかも「長」として男性を率いることが一般的でなく、母の苦労は一方ならぬものがありました。その姿を家族の立場で間近でみて育ちました。女性であるというだけで、能力があっても足を引っ張られたり、けなされたりした母。でも母は決してくじけませんでした。高校時代のある時、母は「あまり育児には携れなかったかもしれないが、一人の女性として働く私の背中を見せることで、あなたが社会人になった時にきっと役立つと思った」と語ってくれました。どんな苦労があっても、決して逃げることなく、職責を果たした母。その逃げない姿勢は、私の背骨に深く刻み込まれています。

母と妻という最も身近な女性二人が、社会の最前線で活躍し、家庭の中だけでなく社会に貢献してきた姿を見てきました。私にとって、女性が社会で働くことは、「当然」のことです。そして、女性の社会進出を阻む保育施設不足などの社会的な壁、または「男は仕事、女は家庭」という観念は、絶対に打破しないといけないと思っています。

両親に感謝していることはいくつもありますが、いちばん大きいのは、幼い時から、私の好きなことをとことんやらせてくれたこと。そのすべてが今の自分につながっています。

今でも本が大好きで、自宅は本棚だらけ

小学校低学年から中学年時は、「本の虫」というぐらい読書好きの子どもでした。何でも読みましたが、特に、ミステリー、いわゆる「世界の七不思議」とか「四次元世界」とか「怪談」とかの話に興味があり、正に濫読しましたね。自分で小説も書きました。小学校1年時の初めての成績表は3段階評価で国語だけが「A」、後は全部「B」だったでしょうか。「神童」と言われたらしい母が、随分がっかりしていたのは覚えています。特に算数が苦手で、勉強の出来る子とは決して言えませんでした。

一方で、当時の担任の先生が授業で私の書いた小説を読んで下さり、「鈴木君はすごいね」と同級生の前でほめて下さったことは、今でも忘れません。体罰なども平気で行われていた当時ではありますが、幸いにも先生方にも恵まれました。勉強が出来ない子でも、運動が出来ない子でも、長所を見つけほめて育てる。これが子育て、または教育の基本だと思います。どんな子でも必ず長所がある、それを見つけて水やりすることが、子育て、教育の基本と考えています。

ミステリー好きが長じて、テレビでやっているSFやホラーなどの映画を小学校3年生ぐらいから見るようになります。やがて小さな映画評論家が誕生しました。テレビでやっている映画はジャンルを問わず片っ端から見て、映画雑誌も「スクリーン」「ロードショー」「キネマ旬報」まで購入していました。「御兄さんが好きなことなら」と忙しい仕事の合間に、月2回ぐらい映画館に連れて行ってくれた両親、改めて感謝に堪えません。やがて、自分で映画の雑誌を創り出しました。見た映画の批評から、封切映画の紹介、楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。繰り返しますが勉強は決して得意でなかった私ですが、夏休みの自由研究では、こうした自作の映画雑誌や小説を提出し、ほぼいつも金賞でした!

当時の読書と映画について、今でも忘れないこの当時の経験を二つ記します。

一つは「レ・ミゼラブル」(あゝ無情)を読んだことです。飢える弟を助けるためにたった一切れのパンを盗んだため投獄され19年の牢獄生活。重労働を課されたジャン・バルジャン。仮出所後も苛酷な差別を受け、怒りと復讐心の虜となりますが、そんな彼を救ったのが盗んだ銀の燭台を「彼にあげたものだ」と言って救ってくれた司教でした。映画やミュージカルにもなり、有名な話です。そのバルジャンが、お話の中盤で市長になります。司教の善意に打たれ、裸一貫から地方で産業を興し、マドレーヌと名乗った彼は、人々に推され市長となります。産業だけでなく福祉にも力を入れ、街を発展させます。平清盛や中曽根康弘元首相、ケネディ大統領やニクソン大統領など尊敬する実在の政治家は別にして、幼少期から私の胸にあった理想の政治家はこの「マドレーヌ市長」でした。私自身、完全無欠な人間ではありません。しかしどんな人間でも、やり直せる。そして立派な市長となって街のために役に立てる。この本を読んだときから、私にとって、「市長」という職業は特別なものとなりました。一方で、バルジャンは結果的に、仮出獄中に姿をくらます形になっており、その行方を執拗に追う警察官がいます。映画を見るなどしてご存知の方も多いかと思いますが、マドレーヌ市長=バルジャンは、自分と間違われ有罪とされそうになった男を救うため、市長の地位を捨てます。そして、市長時代に救えず病死した女性の幼い娘を、守銭奴から救うため、残りの人生を捧げるのです。人として、政治家としてのあり様は、幼い胸にしっかりと刻み付けられました。

もう一つは、映画「砂の器」を見たことです。ハンセン氏病の父親を持つという自らの過去を隠そうと、幼少時に父親と自分を救ってくれた元警察官を殺害してしまう主人公の作曲家。故郷を追われた親子が全国を旅するシークエンスの素晴らしさと共に、親子の情愛の深さ、人の善意の貴さについても、心からしみじみと考えさせてくれる映画でした。

しみじみ、自分は良い両親に恵まれたと思います。学業は国語以外パッとしなかった私を、大きな目で見守ってくれ、やりたいことをやらせてくれました。

私が社会問題や政治に関心を持つようになったのも、読書や映画といった趣味を通してでした。新聞は中学時代から朝夕刊隅々まで目を通していましたが、これも小学校時代から新聞で、映画の広告や記事を読んだり見たりするうちに、政治や国際関係などほかの記事も読むようになったからです。小学校6年生の時には、俳優出身のレーガン氏が米大統領となり、「事実は小説より奇なり」で、現実の政治・社会に関心を強めるようになりました。

佐倉高校旧館

中学校に入ってからも、読書好き、映画好きは変わりませんでしたが、苦手の理数系も意識して勉強するようになり、高校は、千葉県内で最も歴史の古い県立佐倉高等学校に入学しました。1984年4月です。佐倉高は、寛成4年(1792年)に佐倉藩の藩校「佐倉藩学問所」として創設されたのが起源。校長室などがある旧本館は県下高等学校で唯一の明治時代の洋風建築校舎で、国の登録有形文化財です。渡り廊下を通って旧本館に行くと、廊下がミシミシと音を立て、重厚な趣でした。旧本館を歩くたびに「ああこの高校に入学してよかった」と思ったものです。

また、朝礼で校長先生が挨拶していると「よっ、校長」と掛け声がかかり、校長先生も「おうおう」と応じるなど、極めて自由な校風でした。今では信じられないような光景かもしれません。こうした自由で伸び伸びした校風の中で、3年間過ごせたことは私の人格形成に大きく影響したと思います。

高校では映画好きが高じて1年時から映画研究部長を務め、当時まだ珍しかったビデオデッキを部員のお宅から借りて学校に持ち込み上映会を開いたり、映画の自主製作をしたりしました。本当に多くの映画を見ました。

佐倉高校生徒会

高校時代で最も思い出深いのは、生徒会長を務めたことです。生徒会長を務めたのは2年生の9月から3年生の8月までだったのですが、その前に、生徒会書記を1年生の9月から2年生の8月まで務めました。生徒会書記時に最も大きな問題だったのは、放課後の警備を用務員さんから機械警備に変えると学校が決めたことです。その結果、部活動の時間が大幅に削減されることとなり、自分も含む生徒は不満を募らせました。全校生徒へアンケートを行ったり、生徒総会で諮ったりして、会長を補佐し生徒の意見を取りまとめた日々が今でも鮮明に思い出されます。生徒の中には「学校の決めたことを変えられるわけなどない」という冷めた声もありましたが、結局学校側は私たち生徒の声に押され、機械警備の開始時間を遅らせる譲歩を決め、校長先生自らが生徒評議会で表明しました。

これは正に、私にとって「政治」の原点でした。力のある相手(生徒にとっては学校、校長)であっても、公平に皆の意見を取りまとめ交渉すれば、影響を与え決定を変更することも出来る。変えられないことはない。頼高市政という権力に挑戦する私の原点には、間違いなくこの政治的経験があります。

続いて、迷うことなく生徒会長に立候補し、2年生の9月から1年間、務めました。掲げたのは「佐倉高・第3のフロンティア」でした。当時も今も尊敬する政治家にアメリカのケネディ大統領がいます。冷戦時代、様々な分野で米ソの熾烈な競争が繰り広げられましたが、1950年代後半はソ連の追い上げムードが強まっていました。そうした中、1960年に僅差で大統領に当選したケネディは就任演説で、「国家が国民に何をしてくれるかを問いたもうな。一人一人の国民が国家のために何を出来るかを問いたまえ」と格調高く訴えました。このケネディ大統領の掲げた大政策が、土地的な未開拓地(フロンティア)のなくなったアメリカにとって、戦争や差別、貧困などの国家的・国際的課題を解決することが新たな「フロンティア」だとする「ニュー・フロンティア」でしたが、私も開校時や戦後の混乱期に続き、生徒自身の奮起によって学校をよりよくしようと訴えました。

当時「三悪」と言われていた遅刻などの生徒側の問題を改善したうえで、校則で禁止されていたアルバイト解禁など、より生徒の自主性、自由を高めようと努めたことが思い出されます。同時に、「生徒会長」となると、単なる生徒会役員とは全く違い、話し方や髪型までいろいろ注文を付けられ、生徒全体の代表というトップの立場への期待の高さは、政策的な内容だけではなく、イメージも非常に重要なのだと強く実感しました。そこで、眼鏡の代わりにコンタクトレンズを使うようになりました。30代後半になって、医師の指示でコンタクトレンズから眼鏡に戻りましたが、眼鏡なしの顔の方に自信があります…。

また県の派遣で、佐倉高校の代表として他校の代表と一緒に、香港、タイ、マレーシア、シンガポールの4か国・地域を訪れ、視察と共に現地の高校生と交流しました。もともと海外に興味は強かったのですが、初めての海外経験で、「いつか一人で外国を旅したい」との思いが強まりました。

今でも校歌歌えます

卒業式では「答辞」を読みました。内容は全て自分で考えたのですが、「偉大たれ」と卒業生・在校生に奮起を促しました。別に総理大臣や社長を目指せ、という意味ではありません。勉強でもスポーツでも恋愛でもいい、若い可能性を信じ一生懸命やろうぜ、というメッセージでした。会場では多くのすすり泣きが聞こえ、多くの同級生から「良い答辞だった」と肩を叩かれました。いずれにせよ、常に前のめりの3年間でした。

高校卒業後、1年間の浪人生活を送りました。多くの同級生たちが予備校などに通いましたが、我が家は金銭的にも豊かではなく、自宅浪人、いわゆる「宅浪」の日々を送りました。大学はどうしても早稲田大学に入りたかったです。いわゆる早稲田の「在野精神」「バンカラ」に憧れていました。高校時代は生徒会活動や部活に明け暮れておりました。1988年の18歳人口は188万人。2018年は120万人です。正に受験戦国時代です。早稲田に合格するため、浪人の1年間は、今自分で振り返っても「本当によくやった」と思うぐらい勉強しました。勉強法は、合格例を書いた本を買って、必要な参考書や問題集を買い集め、自分で編み出しました。

お盆も正月もない勉強漬けの毎日でしたが、努力の甲斐あって早稲田大学法学部に合格した時は、本当に歓喜でした。「勉強の仕方が分からない」というお子さんが多いと言いますが、やはり何事も本人が本気になることが第一。正直思いますが、やる気がないならやらないほうが良いです。人生の時間の無駄です。でも「宅浪」の日々を通じ、やる気があるなら、何事も道は見えてくると実感しました。迫る戦いでも、ひたすら机に向かったこの日々の根性は大いに生きて来ると思います。

早稲田大学入学はバブル景気絶頂の1988年でした。入学式後、大隈講堂や演劇博物館などで有名な本部キャンパスに、サークル勧誘のテーブルがずらりと並んだ様は壮観でした。大学時代の中心は、「勉強」と言いたいところですが、実際は海外旅行とその費用を捻出するためのアルバイトでした。幼い日からの海外への憧れ、そして高校時代の東南アジア派遣もあり、どうしても一人で海外旅行に行ってみたかったのです。単位はきちんと取って4年間で卒業しましたが、早稲田の自由な雰囲気にやや羽目も外し、全国から来た同年代の若者たちと、本当に自由に、青春を謳歌した日々でした。

当時は時節柄、建設ラッシュでもありましたので、都内や千葉県内などの建設現場で肉体労働に励みました。一日で最もお金が稼げる仕事でありましたが、実際なかなかきつかったですよ。ほかにも家庭教師や塾講師などもしました。インターネットなどなかった時代です。家庭教師に関しては、銀行に行って情報交換コーナーに「生徒募集」の掲示をするなどして募集しました。「先生」などと呼ばれるのは固辞しましたが、中学生から大学受験浪人生まで、生徒さんたちが目標校に合格したり、成績アップしたりして、親御さんも含め感謝されるとうれしかったですね。

イタリア・カプリ島で(1989年7月)。今でも交遊が続いています

こうして稼いだお金を使って初めて海外旅行に行ったのは、御代が平成に変わったばかりの1989年1月でした。旅先は、ギリシャ、エジプト、トルコの3か国。歴史好きの私としては、憧れの地で初の海外一人旅の行き先として決めましたが、いわゆる先進国ではありません。更に、海外旅行、しかも学生一人での海外旅行は、まだまだ今のように一般的ではありませんでした。好きな言葉である「見る前に跳べ」の精神がここでも現れたようです。大変かもしれないけどやってみよう、やらないで後悔するよりやってみよう❢これが変わらぬ私のマインドですね。

ギリシャ・エーゲ海の島で(1989年2月)
ギリシャ・
エーゲ海の島で(1989年2月)

旅はいわゆる「バックパッカー」で、リュックを背負い、中には渡航先の本をぎっしり詰めていました。「成田⇒アテネ」「イスタンブール⇒成田」の日時指定された航空券のほか、「アテネ⇒カイロ」「カイロ⇒イスタンブール」のオープンチケットを手に2か月の旅に出ました。到着後は「だまされるんじゃないか」とか、かなりびくびくしていました。ホテルをチェックアウトして歩いていると、旅行代理店で働いているというおじさんに声を掛けられ、お店に連れていかれました。警戒心は頂点でしたが、結果として悪いお店ではなく、ギリシャでの大雑把な旅程をそこで決め、それに沿って旅行することとなりました。当時多くの日本人が利用することで有名だった半日程度のエーゲ海クルーズに参加しましたが、私は同クルーズで訪れる最後の島・イドラ島で敢えて一人船を降りました。また不安な気持ちになりましたが、いいホテルが見つかり安心しました。このほかにも、クレタ島やミコノス島、デロス島やオリンピア、デルフィなど様々な景勝地、歴史の舞台を訪れました。クレタ島では嵐で飛行機が不通となり、急遽船でアテネに戻るハプニングもありました。一通りギリシャでの旅を終え、件の旅行代理店のおじさんと会うと、「お、たくましくなったな」と言ってくれたこと、今でも鮮明に覚えています。

モーゼの十戒で有名なエジプト・シナイ山で日の出を望む(1989年3月)

続く、エジプト、トルコは、現地の旅行代理店を訪ね下準備することなく、完全に一人で旅をしました。繰り返しますが、ネットなどなかった時代。目的地に着くと、そこでホテルを一軒一軒訪ね、値段交渉やトイレの水が流れるか温水シャワーが出るかなど確認して、宿泊先を決めます。今思えば、本当に冒険でしたし、若い時しか出来ないことをしたな、と今になって思います。また、こういう旅で大事だったのが、同じく貧乏旅行をしている世界中の若者たちとの情報交換。旅先で世界中から来た多くの人たちと交流し、旅の一部を同行もしました。正に「一期一会」。最近はバックパッカーでも、ネットを使ってのホテル予約が一般的になっていると聞きますが、本当に時代は変わったものだと思います。当時は今から思うと不便だったかもしれませんが、不便ゆえに多くの出会いがあったなあ、としみじみ思います。 大学時代に一人旅したのは、上記の3か国の他、訪れた順に、イタリア、バチカン、ドイツ、オランダ、フランス、スリランカ、パキスタン、アメリカ、ペルー、メキシコ、タイ、ベトナム、ラオスでした。読売新聞東京本社への入社は4年生の春には決まっていたのですが、入社3日前まで、旅の空にいました。図書館にこもって勉強三昧という学生時代ではありませんでしたが、机の上では学べない多くの経験をしたと思います。海外の知人の中には、今でも交流が続いている人もいます。

<続きはまた近日公開いたします>

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